皆様、こんばんは。我ら、若人、あしたか清友です。
令和元年11月20日(水)、【香芝市遺族会】令和元年度後期平和学習会に参加しました。
そもそも遺族会とは、
『日本遺族会とは、「大東亜戦争」戦没者遺族の全国組織として昭和22年(当時は、日本遺族厚生連盟)に創設され、そして、28年3月、財団法人として認可されました。各都道府県には独立した遺族会が結成され、日本遺族会の支部としての役割も果たしています。市町村にも遺族会が結成されており、各々、さまざまな活動をしています。』一般社団法人日本遺族会のHPより「日本遺族会について」を抜粋
私自身は、祖父の兄が戦死しており、祖父が熱心に遺族会で活動しておりました御縁で、香芝市遺族会の前期平和学習と後期平和学習に参加させていただいています。年に2度、前期平和学習では、護国神社を正式参拝させていただき、戦争遺産のある地域に現地視察に向かいます。後期平和学習も戦争遺産のある地域に現地視察に伺います。今回は、兵庫県加西市にある、姫路海軍航空隊鶉野飛行場跡に香芝市遺族会の皆様と研修に行きました。
加西市歴史街道ボランティアガイドさんからの案内で研修がスタート!
姫路海軍航空隊基地
1943(昭和18)年10月、姫路海軍航空隊(通称「姫空」)が鶉野に開隊。されに先立つ同年三月、基地の建設工事がはじまった。1942(昭和17)年6月のミッドウェー作戦の失敗により、日本海軍は戦場での制空権の重要性を認識し、同年秋、パイロットを急遽養成するため、姫空を含め、基地航空兵力の増隊を決定。姫空は、実用訓練をおこなう練習部隊であり、初級、中級訓練を終えた練習生が、艦上攻撃機、練習機による実用教程を終え、全国の航空隊に赴任していった。また、1944(昭和19)年3月には、内地での燃料不足により、練習を外地でおこなうため、鶉野で航空隊(第31空、第32空)を編成し、マニラへ向かって出発した。1945(昭和20)年2月、戦局の悪化に伴い、実用教程練習航空隊からも特別攻撃隊が編制されることになり、姫空からも志願者が募られた。特攻隊は白鷺隊と名づけられ、3月には宇佐海軍航空隊へ進出。4月には沖縄戦支援のために6回にわたって串良基地から出撃し、63名が戦死した。姫空が閉隊されたのは、1945年5月5日、この日第五航空艦隊に編入された。一方、航空基地は、飯盛山(現フラワーセンター)にトンネルを掘り、誘導路の整備を行い、本土決戦に備え、終戦時には、飯盛山に居住区、指揮所などが設けられた。
※説明文は、加西市歴史街道のパンフレットより抜粋
戦後54年を経た平成11年に、旧海軍関係者、地元有志が協力し、特異な歴史的背景を持つ鶉野飛行場跡を貴重な歴史遺産として後世に伝えるとともに、尊い犠牲の上に築かれた今日の平和が、永遠に続くことを祈念し、鎮魂の想いを込めて、建立されました。
戦時中、鶉野飛行場には川西航空機製作所鶉野工場があり、「紫電」と「紫電改」の合計512機が組み立てられました。実物大を加西市が発注し、茨木県で制作され、2019年5月より公開されています。実物大の戦闘機の模型は資料館の中にあるのですが、戦闘機の向いている先に鶉野飛行場跡があります。
今の平和と繁栄は、多くの尊い犠牲の上に築かれ、平和の大切さを次世代に伝えていかなければなりません。
3人乗りです。
二度と戦争をしてはならない。